加藤直泰
初代藩主 加藤直泰について
加藤直泰は、元和元(1615)年、大洲藩初代藩主となる貞泰の子として、伯耆国米子で生まれました。
父貞泰が亡くなった後の寛永11(1634)年、兄の加藤泰興(大洲藩2代)との間で分知(領地を分けること)を巡る騒動がおこります。
この騒動の原因は、貞泰の遺言を基につくられた「御袋文」と呼ばれる文書の有無です。
この文面には、直泰が15歳になったときに、大洲藩6万石のうち1万石を直泰に分けるようにと記されていて、この文面をもとに直泰は分知を迫ります。
しかし、兄泰興はこれを拒絶、両者とも譲らないまま5年が過ぎ、寛永16(1639)年、加藤家親族代表の調停によってようやく解決しました。
これにより直泰は、6万石の内1万石の内分分知(本家は領地の一部を分け与えても、石高は減らされない分知のこと)をうけ大名となりました。
寛永18(1641)年、27歳で初めて大洲に入りますが、まだ屋敷地が定まっていなかったため、さっそく陣屋を新谷と定め、侍屋敷などの建設を進めました。
さらに、烏丸家から堂上派歌道(近世和歌の流派の一つ)を学び、北野能円から古今伝授を受けた直泰は、歌道に優れた藩主と伝えられ、その後の大洲藩主や新谷藩主も堂上派歌道を学ぶなど、大洲・新谷藩の和歌の系統は、直泰に始まったと言われています。
寛文9(1669)年、加藤泰義(泰興の子)の長男である泰觚を養子とした直泰は、天和2(1682)年、新谷において68歳で没しました。
法眼寺に葬られた直泰の墓碑は、新谷藩主の中で唯一、五輪塔でつくられています。