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加藤泰興

更新日:2021年4月20日更新 印刷ページ表示

2代藩主 加藤泰興について

2代藩主 加藤泰興 加藤泰興

元和9(1623)年、父・貞泰が亡くなると、13歳で大洲藩6万石を相続します。

しかし、寛永11(1634)年、弟・直泰との間で、分知(領地を分けること)を巡る騒動が勃発します。

この騒動の原因は、貞泰の遺言を基につくられた「御袋文(おふくろぶみ)」と呼ばれる文書の有無でした。

両者とも譲らないまま5年が過ぎた寛永16(1639)年、加藤家親族代表の調停によってようやく解決し、直泰を藩主とする新谷藩が誕生しています。

一方、若くして藩主となった泰興ですが、積極的に藩の基盤強化をおこなっています。

大洲藩の飛地だった風早郡(現在の松山市北条地区の一部)・桑村郡(現在の西条市三芳地区の一部)と、松山藩だった伊予郡(現在の伊予市、松前町、砥部町の一部)の領地交換を成功させ、移動などの不便を解消しました。

また、松山城、高松城、丸亀城の在番を務めると、その時に改易となった藩の家臣で優秀な人物を召し抱えるなど、家臣団の充実を図っています。

泰興は槍の名手として知られ、槍術をより深く極めるために禅道を学ぶなかで、平戸藩主・松浦鎮信(まつうら しげのぶ)を介して知った盤珪永琢(ばんけい ようたく)に出会います。

盤珪の教えに深く心酔した泰興は、盤珪を大洲へ招き、寛文9(1669)年に冨士山(とみすやま)に如法寺(にょほうじ)を建立します。

延宝2(1674)年、家督を孫・泰恒に譲った泰興は、3年後、大洲の下屋敷において67歳で亡くなりました。

如法寺にある泰興の墓所には、五輪塔の前に亀扶碑(きふひ、亀の甲羅の上に石碑が載ったもの)が配置され、この碑文には、「予州如法寺中興碑」として泰興の功績が記されています。

 

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