加藤貞泰
初代藩主 加藤貞泰について
加藤貞泰
大洲藩初代藩主である加藤貞泰は、天正8(1580)年、加藤光泰の嫡男として近江国磯野村(現在の長浜市)に生まれました。
文禄2(1593)年の朝鮮の役において、父・光泰が急病のため59歳で亡くなると、翌年甲斐国24万石から美濃国黒野4万石へ移されます。
この転封は、光泰の遺言によるものとされていますが、一説には光泰と対立していた石田三成が、15歳の貞泰に甲斐国を任せることは危険であると、秀吉に告げ口したことによるとも言われています。
文禄3(1594)年から慶長15(1610)年の15年間、黒野を領有した貞泰は、黒野城を築くほか、河川の堤防工事をおこないました。
しかし、慶長15年、堤防工事が完成しないまま伯耆国米子へ転封となってしまいます。
未完成となった堤防は、貞泰の官職名である左衛門尉(さえもんのじょう)の一部をとって「尉殿堤(じょうどのつつみ)」と呼ばれ、現在もその一部が残されています(岐阜市指定史跡)。
元和3(1617)年、大坂夏の陣の功により、米子から伊予国大洲へ転封となりました。
大洲へ入封した貞泰は、大洲城の修復や藩船の運行に当たる船手組を組織するなど藩の基盤強化に努めましたが、元和9(1623)年、江戸において44歳で亡くなりました。
遺骸は、江戸の菩提寺である海禅寺に埋葬され、大洲にも墓所が築かれました。
貞泰の墓所は、龍護山曹渓院本堂前の少し高い場所に泰行(8代)と並んで配置されています。
貞泰の人物像については、人愛深く、節義を重んじるだけでなく、詩を賦し歌を詠み、連歌を好むなど風流人であったとも伝えられ、文武にたけた藩主でありました。