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加藤光泰
大洲藩主加藤家の藩祖である加藤光泰は、天文6(1537)年、加藤景泰(かとう かげやす)の嫡男として美濃国厚見郡今泉村橋詰の庄(現在の岐阜市)に生まれました。
初めは美濃国の斎藤龍興(さいとう たつおき)に仕えましたが、斎藤氏の没落後は秀吉の家臣となり、大和国秋山城主、近江国佐和山城主を経て、天正19(1591)年に甲斐国24万石の領主となりました。
勇猛果敢と称された光泰は、片鎌槍の達人であると同時に、論語孟子を親しむ学問にも熱心な武将でした。
文禄2(1593)年、朝鮮の役において、急病のために59歳で亡くなります。
石田三成による毒殺とも言われていて、これが原因で加藤家は関ヶ原の戦いのとき、徳川方に味方したとも言われています。
光泰の遺骸は朝鮮で火葬され、甲斐善光寺に葬られました。
分骨された光泰の遺骨は、嫡男の貞泰の転封とともに移転を繰り返し、元和3(1617)年、大洲に納められました。
現在の光泰の霊廟は、文政5(1822)年に造営されたもので、龍護山曹渓院にあります。
歴代藩主の墓碑の中で、唯一家の形をした厨子や朱色に塗られた覆屋が他の藩主の墓所にはない特徴です。
これは、大洲藩が光泰を他の藩主と区別化し、特別な存在として位置付けようとしたものと考えられています。