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加藤泰衑
大洲藩6代藩主・加藤泰衑は、享保13(1728)年、大洲藩加藤家の分家で旗本の池之端家当主・加藤泰都(かとう さすさと)の長男として江戸に生まれました。
延享元(1744)年、徳川家重(のちの9代将軍)の御小納戸(主君のそば近くに仕え、日常の細務に従事するもの)に、翌年には御納戸小姓になりますが、同年5代藩主・泰温の急死により、急きょ大洲藩の家督を相続しました。
藩主となった泰衑ですが、10年後の宝暦5(1755)年、突然大洲にいる家老達に隠居の意向を伝えます。
隠居の意向に驚いた家老たちは、急いで江戸へ向かい隠居に反対し、泰衑を説得します。
この突然の隠居話は、実は泰温が亡くなって1ヶ月後に生まれた泰温の長男・冨之助(のちの7代藩主・泰武)の存在があったからだとされています。
これは、分家出身の泰衑自身ではなく、直系の冨之助が泰温の家督を相続すべきだと思慮したためで、冨之助が元服した宝暦11(1761)年、自身の養嗣にすると、翌年には家督を冨之助に譲って隠居しています。
こうした本家相続に対して遠慮深かった泰衑ですが、延享4(1747)年、中江藤樹百年忌祭礼や、泰温の悲願であった藩校「止善書院明倫堂」を完成させます。
また、宝暦9(1759)年には、加藤家の家史となる『北藤録』全20巻を完成させます。
35歳の若さで隠居した泰衑ですが、泰武(7代)、泰行(8代)が早世するなか、藩を支え本家の存続に尽力し、天明4(1784)年、57歳で江戸において没しました。
墓所は龍護山にありますが、本家への遠慮からか、他の藩主とは離れた場所に造られています。