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加藤泰武
7代藩主・加藤泰武は、泰衑(6代)の隠居に伴い、宝暦17(1762)年に家督を相続しました。
藩主となった泰武は、朝鮮通信使の供応役、尾張・美濃・伊勢の川堤普請の公役を命じられると、その経費捻出に苦しみました。
家臣には100石に付き9人扶持という址低給与の支給としたほか、領内各村々には、村高に応じた出銀を賦課する高懸を命じるなど経費の工面を行いました。
明和3(1766)年、泰衑の長男・泰行を順養子(家の養子となった者が、養方の弟を自分の養子とすること)とすると、明和5(1768)年、江戸において24歳で亡くなりました。
遺骸は、如法寺へと運ばれ葬られました。