加藤泰温
5代藩主 加藤泰温について
加藤泰温
大洲藩5代藩主・加藤泰温は、享保元(1716)年加藤泰統の嫡男として江戸に生まれました。
享保12(1727)年、父・泰統が亡くなると12歳で家督を相続しました。
泰温が藩主となって初めて大洲へ入った享保17(1732)年は、城下町で360軒余りを焼失する火災が発生したほか、夏からの長雨とウンカ(イネの害虫)の大発生によって、食糧不足が深刻になった年でした。
このため、大洲藩領内でも数多くの飢人(うえた人)・餓死者が出ており、大洲城下だけでも飢人521人、餓死者は19人にのぼったと言われています。
これがいわゆる享保の大飢饉です。
さらに、元文5(1740)年には、600軒余りの町家が類焼する大洲城下最大の火災が発生するなど、度重なる災害から大洲藩の財政はひっ迫した状態となりました。
そのため、藩では極度の緊縮財政を図ることとし、藩主をはじめ台所方の経費まで強い制限を加えたほか、五郎の玉川にあった御茶屋(藩主の別邸)や京都屋敷の廃止を進めました。
若くして藩主となった泰温は、陽明学者の三輪執斎(みわ しっさい)を江戸屋敷に招き講義を受けると、陽明学の思想に深く傾倒し、藩内にもこの学問を広めようと、執斎の高弟である川田雄琴(かわた ゆうきん)を召し抱えます。
雄琴を召し抱えた泰温は、陽明学を広めるために藩校の建設を計画し、泰温自ら率先して節約を行い建設資金の貯蓄を図ります。
ようやく延享元(1744)年、泰温は藩校の建設を命じますが、翌年、志半ばにして、江戸において30歳の若さで没してしまいます。
遺骸は大洲へと運ばれ、如法寺に葬られました。