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加藤泰儔

更新日:2021年4月20日更新 印刷ページ表示

7代藩主 加藤泰儔について

加藤泰儔は、天明3(1783)年、泰賢(6代)の子として江戸に生まれ、文化7(1810)年、父の隠居に伴い家督を相続しました。

泰儔が藩主に就任したころは、藩財政が破綻の危機となったため、本家の大洲藩が新谷藩の政治・財政全面にわたって管理をおこなっていましたが、文化10(1813)年に両藩話し合いのうえ、行政面のみが先に新谷藩へ戻されました。

翌年、本家支配の年限が明けるものの、引き続き領内には厳しい倹約や風紀の粛正を命じました。

税制も3年間は、収穫前に米の生育状況を調べて豊作・凶作によって税率を決定する「検見取」から、各村々の過去数力年の実収入の平均値によって一定の税率を決定する「定免」とするなど財政難打開に努めました。

また、駿府御加番、江戸城の鍛冶橋、幸橋・呉服橋などの諸門番を勤めたためか、江戸藩邸における借用金が多くなったことから、天保元(1830)年には領内の各村々に御用銀を割り付けるなどして、借用金の減額を図りました。

このほか、泰儔が藩主について間もない文化6(1809)年には、大洲藩の大洲村と新谷藩の阿蔵村との間に、水資源をめぐる紛争(竹之窪水論)が生じています。

数年にわたる紛争の禍根を絶つための打開策として、両藩は村の交換をおこない、新谷藩であった阿蔵村と梅ノ川村(梅川)は大洲藩へ、大洲藩であった一木村(市木)と北山村(喜多山)、大南村(現在の砥部町)の一部は新谷藩へと移りました。

泰儔は、天保2(1831)年に隠居し、翌年、父泰賢と同じく疝積(せんしゃく、胸や腹などがさしこんで痛む病気)と足痛の持病を抱えていた泰儔は、道後温泉の湯をくみ寄せて湯治を図るため、新谷へ引き移りました。

嘉永2(1849)年、剃髪して誠翁と称すると、明治4(1871)年、新谷において89歳で没しました。

泰儔は、これまでの藩主とは異なり神葬とされ、新谷藩邸近くの楓山に葬られました。

 

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