本文
加藤泰賢は、明和4(1767)年、泰官(5代)の嫡男として江戸に生まれました。
明和8(1771)年、父泰官の死去に伴って5歳で家督を相続しました。
泰賢は、天明3(1783)年、新谷に藩校「求道軒」を創立し、藩士の教育に努めました。
しかし、駿府御加番、江戸城の幸橋、日比谷口の諸門番など多くの公役のほか、領内で頻発した風水害などによる年貢収入の減少から、1万石という石高の少ない新谷藩の財政は危機的な状況となっていきました。
この財政難を打開するため、領内の町や郷の富裕者に対して「寸志銀」や「御用銀」と称して藩へ銀の上納を命じるほか、省略令を布達して倹約を命じました。
この省略令には、3月の雛飾りや5月の節句飾りなど、祝いの行事や風習までも厳しい取り決めがなされるほか、建物の畳替えについても厳しく規制されました。
また、藩士の給与についても、格段に引き下げる緊縮財政とすることで財政難を打開しようと図りました。
しかし、文化6(1809)年、藩財政は破綻の状態に陥る結果となり、本家の大洲藩が5年間、新谷藩の政治・財政全面にわたって管理することとなりました。
これにより新谷藩は、一時的に藩としての独立機能を停止した状況となりました。
この事態を引き起こした責任を取ってか、泰賢は文化7(1810)年、家督を泰儔に譲り隠居しました。
文政8(1825)年に剃髪して出雲入道と改名すると、翌年疝積(せんしゃく、胸や腹などがさしこんで痛む病気)と足痛の持病を抱えていた泰賢は、道後温泉の湯をくみ寄せて湯治を図るため新谷へ引き移りました。
天保元(1830)年、新谷において64歳で没すると、法眼寺に葬られました。