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加藤泰秋
大洲藩13代藩主・加藤泰秋は、弘化3(1846)年、泰幹(11代)の子として大洲に生まれました。
元治元(1864)年5月、兄泰祉(12代)の政事相談役に任じられますが、8月、兄の急死により19歳で家督を相続しました。
泰秋が藩主に就任したころは幕末の動乱時期であり、泰秋は藩の去就を判断するため、慶応2(1866)年から数回にわたり土佐藩に使者を派遣して情報収集をおこないました。
また、慶応3(1867)年10月に大政奉還がおこなわれると、形勢査察のために長州藩へ使者を遣わし、上京のタイミングを狙っていた長州藩との間で、大洲藩が警衛していた西宮から藩兵を上陸させる密約を結びました。
これにより、荷物の陸揚げ、宿の割り付けをけじめ、提灯・合印など大洲藩のものを使用させるなど、藩を挙げて長州藩兵の上陸援護をおこないました。
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに始まった戊辰戦争(旧幕府軍と明治新政府軍との内戦)では、大洲藩は2小隊(武成隊)約120人を派遣し、東北地方まで転戦しました。
大洲の八幡神社には、今泉村(現在の福島県須賀川市)まで転戦した武成隊の様子を描いた絵馬が掲げられています。
明治元(1868)年、泰秋は明治天皇の東京行幸に際して、行列の前駆を任されます。
騎馬で藩兵を率いて先導する泰秋の姿は、大洲藩の有終の誉を飾るものであったと伝えられています。
明治4(1871)年の廃藩置県後は東京へ移住し、明宮(はるのみや、のちの大正天皇)に5年間奉仕すると、大正15(1926)年、東京において81歳で没しました。
墓所は龍護山につくられています。