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加藤泰祉

更新日:2021年4月20日更新 印刷ページ表示

12代藩主 加藤泰祉について

12代 加藤泰祉 加藤泰祉

大洲藩12代藩主・加藤泰祉は、天保15(1844)年、泰幹(11代)の子として大洲に生まれ、嘉永6(1853)年、父泰幹の死去に伴い10歳で家督を相続しました。

泰祉が藩主に就任した直後の安政元(1854)年と安政4(1857)年には、未曽有の大地震が大洲を襲います(いわゆる安政の大地震)。

大洲城内では高欄櫓、台所櫓をはじめとして、櫓や藩主の居住する御殿など数多くの建物の倒壊のほか、地割れや石垣の崩れ、城下町では、侍屋敷96軒、町家487軒が破損するなど著しい被害を受けました。

災害復興において、とくに大洲城では、家臣を総動員して石持ちなどに従事させたほか、藩領内の村々に加勢夫を差し出させるなどして早急な復興を進めました。

一方、朝廷を重んじた泰祉は、文久2(1862)年、朝廷から非常時における京都讐備の内勅をうけると、文久3(1863)年の「八月十八日の政変」(会津藩と薩摩藩が長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放した事件)の際には、新谷藩とともに参内し宮中守衛を行い、9月11日まで京都の警護にあたりました。

こうした京都警護の尽力の功により、元治元(1864)年5月、泰祉は歴代藩主の中で唯一従四位下に推叙されますが、同年8月大洲において21歳の若さで急死します。

遺骸は、その日のうちに如法寺に密葬されました。

歴代藩主の肖像画は、赤(五位)の衣冠束帯姿で描かれているのに対して、泰祉は黒(四位)で描かれています。

これは他の藩主とは異なり、上位の官位にあったことを表しています。

 

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