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加藤泰幹
大洲藩11代藩主・加藤泰幹は、文化10(1813)年、泰済(10代)の子として大洲に生まれ、文政9(1826)年、父泰済の死去に伴い家督を相続しました。
泰幹の藩主就任時は、大洪水の直後であったため、藩では厳しい経費節減を図っていました。
泰幹は、これに加えて文政11(1828)年より3年間、役所予算の2割削減を実施し、天保4(1833)年には省略令を5年延長したほか、修繕は一切認めないという厳しいものとしました。
一方で、度重なる洪水に悩んだ泰幹は、天保2(1831)年、矢落川と肱川が合流する付近の川幅が狭いことから、五郎慶雲寺山の一部を削って川幅を広げる大規模な治水工事を実施しました。
また、泰幹は父泰済が取り組んでいた『韓魏公集』刊行の意志を引き継ぎます。
喪中であっても作業を継続し、天保12(1841)年から3年間かけて本文を完刻し、弘化3(1846)年、懦者林檉宇の序文を冠して江戸の玉山堂などから出版しました。
泰幹によって刊行された『韓魏公集』は17冊にものぼり、泰済時代に刊行された『別録』、『遺事』、『家傳』も含まれています。このため、『別録』、『遺事』、『家傳』は泰済版と泰幹版の二種類が存在しています。
父の偉業を達成した泰幹は、嘉永2(1849)年、中風(脳卒中による半身不随など)を病み、嘉永6(1853)年、江戸において41歳で没しました。
遺骸は海禅寺に葬られ、遺髪は龍護山曹渓院に埋葬され、墓所は父泰済の墓所の裏に造られています。