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加藤泰済
大洲藩10代藩主・加藤泰済は、天明5(1785)年、泰候(9代)の5男として大洲に生まれました。
天明7(1787)年、父の急死により家督を相続しますが、相続の都合上、幕府への届け出は天明元(1781)年生まれとして報告されました。
泰済は、大伯母(泰武(7代)の娘)が、白河藩主でのちに老中となる松平定信の継室(後妻)となったことからか、幼少のころより定信に愛されていました。
具足召初の儀式に際しては、定信が因親になるだけでなく、享和2(1802)年には定信の娘を妻に迎えるなど、定信との関係は非常に深いものでした。
若くして藩主となった泰済は、学問志向が強く、藩学であった陽明学以外にも朱子学や橘家神道を学ぶなど、一つに偏らず広く学問を習得しました。
この泰済の諸学志向の精神は、その後の藩の学風となりました。
藩領内では各種著作物の編纂も活発となり、『富士山志』、『予州大洲好人録』、『農泉状筆録』などの編纂物が相次いで刊行されました。
泰済自身も、自らが尊敬する北宋の政治家・韓埼の著作物『韓魏公集』全集の刊行を企画します。
文政9(1826)年4月から取り掛かり、順次刊行されますが、刊行途中の同年9月20日、江戸において42歳で没しました。
遺骸は、大洲へ運ばれ龍護山曹渓院にある藩祖光泰の廟所の横に葬られ、忌日は遺命により光泰と同じ29日と定められました。
これは、藩祖顕彰を図った泰済が死してもなお光泰の顕彰を体現化しようとしたものと考えられます。
他の藩主全員が五輪塔であるのに対し、泰済の墓碑は唯一、笠付塔婆の形となっています。