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加藤泰候
大洲藩9代藩主・加藤泰候は、宝暦10(1760)年、泰衑(6代)の4男として江戸に生まれました。
明和6(1769)年、兄で泰行(8代)が急死してしまったことにより、10歳で家督を相続しました。
泰候の藩主在任中は、明和9(1772)年、江戸の大洲藩上屋敷が、江戸三大大火の一つに数えられる明和の大火によって全焼したほか、天明7(1787)年4月には、大洲で115軒の家屋が流される未曽有の大洪水が発生するなど、相次ぐ災害に見舞われました。
また、一方で勅使下向供応役、関東筋ならびに豆州川々御普請手伝いなどの公役も命じられます。
財政難にあった藩では、これらの経費を工面するため、上屋敷再建の際、大洲城中の丸屋敷を解体して江戸へ回送し再建の材料としたほか、家臣給与の削減、江戸屋敷詰めや普請組の人数の削減をおこなうなど経費節減に努めました。
さらに、製紙や砥部焼を奨励し藩が統制を図ることで藩の財政再建をおこなおうとしました。
このように財政再建に努めた泰候ですが、財政面だけでなく城中における挨拶儀礼、節句時の藩主へ挨拶できる家臣の範囲や序列、城内庶務の規定、服制などの規制改正といった諸改革をおこないます。
さらに、分家である新谷藩に対しても、本家と分家間とにおける家臣の格式や規律を布達するなど、行政・財政にわたる藩政改革をおこないました。
しかし、天明7年7月、藩政改革も志半ばにして江戸において28歳で没しました。
遺骸は江戸の海禅寺に葬られますが、遺髪が大洲へ運ばれ如法寺に埋葬されています。
墓所は、泰興(2代)の墓所の敷地内に造られています。