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加藤泰恒

更新日:2021年4月20日更新 印刷ページ表示

3代藩主 加藤泰恒について

3代 加藤泰恒 加藤泰恒

大洲藩3代藩主・加藤泰恒は、明暦3(1657)年、加藤泰義(2代藩主・泰興の嫡男)の嫡男として江戸に生まれました。

延宝2(1674)年、祖父・泰興が隠居すると、父・泰義はすでに亡くなっていたことから、18歳で祖父から家督を相続しました。

藩主となった泰恒は、天和元(1681)年、これまで土地(知行)で支給していた家臣の給与方法を、米豆(蔵米)で支給する方法へと変更し、領地支配における藩主権力の集中化を図っています。

さらに、天和3(1683)年には、領民に対して心得箇条を公布するなど領内統治の基盤を整えました。

泰恒の藩主在任中は、幕府より天皇の使者を接待する勅使饗応役(ちょくし きょうおうやく、天皇から江戸に派遣た使者を接待する役職)を6度命じられており、元禄9(1696)年に務めた日光参向門跡馳走役の際には、忠臣蔵で有名な吉良上野介からいじめを受けたと言われています。

そのため、元禄11(1698)年、親交のあった赤穂藩主・浅野内匠頭が饗応役を務めることになった際、役目が終わるまでは耐えるように諭したという逸話が残されています。

また、幕府御用絵師である狩野常信(かのう つねのぶ)に絵画を学んだ泰恒は、絵の才能も高く評価されていました。

その腕前は宮中まで聞こえ、宝永2(1705)年、和歌の師で親交のあった大納言・清水谷実業(しみずだに さねなり)を通じて、三幅対の「富士に鷹図」を献上したと伝えられています。

正徳5(1715)年、泰恒は痢疾(りしつ、消化不良や消化機能の低下を背景とした下痢)を病んで、江戸において59歳で没しました。

遺骸は江戸から大洲へ送られ、如法寺に葬られました。

泰恒の墓所には、祖父・泰興と同様に亀扶碑が息子・泰統によって建てられ、その功績をたたえています。

 

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