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中江藤樹|矢野玄道|武田成章|香渡 晋|三瀬諸淵|加藤泰通|植木秀幹|神山諦鑁
わが国における陽明学の祖。《近江聖人》と称えられています。
9歳の春、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父とともに米子に赴きましたが、10歳の時藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の大洲市)に移り住みました。27歳の時大洲藩を去り近江に帰りますが、大洲藩の教育に大きい影響を及ぼしました。
藤樹の屋敷跡は現在大洲高等学校内にあり、その場所に「至徳堂」が建築されています。また、藤樹の用いた昔のままの井戸が「中江の水」として保存されています。
中江藤樹
名前 | 中江藤樹 |
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よみがな | なかえとうじゅ |
出生地 | 近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町上小川) |
生存期間 | 1608-1648 |
活躍した時代 | 江戸時代初期 |
職業 | 儒学者 |
矢野玄道
幕末から明治にかけて活躍した全国的に有名な国学者です。
25歳のとき平田篤胤の門に入り、国学の研究に生涯をささげました。その著書は700あまりにおよぶと言われています。
名前 | 矢野玄道 |
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よみがな | やのはるみち |
出生地 | 大洲市阿蔵 |
生存期間 | 1823-1887 |
活躍した時代 | 幕末~明治 |
職業 | 国学者 |
武田成章
幕末から明治時代に兵学等の研究や軍部の要職を歴任した軍人です。 緒方洪庵の適々斎塾で蘭学を学び、佐久間象山に入門し兵術等の研究に打ち込みました。函館の五稜郭を築城したことで有名です。
名前 | 武田成章 |
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よみがな | たけだしげあや |
出生地 | 大洲市中村 |
生存期間 | 1827-1880 |
活躍した時代 | 幕末~明治 |
職業 | 軍人 |
香渡 晋
大洲藩の支藩である新谷藩士で、明治維新において活躍し新谷藩大参事を務めました。
岩倉具視の招きにより、宮内省へ出仕し、具視の顧問として各界に活躍し明治憲法制定にも貢献しました。また、大正天皇の御用掛を拝命し御養育の大任を果たしました。
名前 | 香渡 晋 |
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よみがな | こうどすすむ |
出生地 | 大洲市新谷 |
生存期間 | 1830-1902 |
活躍した時代 | 幕末~明治 |
職業 | 新谷藩大参事・大正天皇の御用掛 |
蘭医シーボルトに師事した医者です。
1858年、長崎から大洲に帰り、持ち帰った電信機械の実験を行い、約1キロメートルの銅線を架設し実験に成功しました。これは日本で最初の電信の成功でした。その後、大阪病院一等医等に任ぜられ医学界で活躍しました。
三瀬諸淵
名前 | 三瀬諸淵 |
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よみがな | みせもろぶち |
出生地 | 大洲市大洲中町 |
生存期間 | 1839-1877 |
活躍した時代 | 幕末~明治 |
職業 | 医者 |
明治33年学習院高等科を卒業の後、翌年英国に留学。39年にケンブリッジ大学を卒業して帰国後は、宮内省式部官、大礼使事務官、皇后官事務官、本官などを歴任。昭和7年に貴族院議員に当選して以後は、三期に及び国政に参画し、諸国を歴訪して国際親善に尽くしました。
終戦後は大洲に住み、昭和24年に冨士山の所有林90町8反を大洲町に寄付したのをはじめ、多額の私財を提供して、大洲市の産業の発展、教育・文化の高揚、スポーツの振興に寄与しました。正三位勲三等受賞。
加藤泰通
名前 | 加藤泰通 |
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よみがな | かとうやすみち |
生存期間 | 1879-1971 |
活躍した時代 | 明治~昭和 |
職業 | 貴族院議員 |
称号 | 大洲市名誉市民 |
贈呈年月日 | 昭和38年1月1日 |
明治37年東京帝国大学林学実科を卒業後、宮城県立農学校の教諭となり、明治40年韓国政府の招きで農林学校教授兼林業技師として赴任しました。38年余にわたって山野の緑化と造林に貢献し「朝鮮緑化の父」と呼ばれました。大正11年米国ハーバード大学生物学研究所を卒業。「朝鮮文化功労賞」「勲二等瑞宝章」「従三位」を叙勲。
終戦後は市内柚木に住み、愛媛大学農学部教授を勤めながら石鎚山系の植物・林木の論文を発表し、晩年は市の文化財専門委員、木を愛する会の会長として天然記念物の指定、後進の指導に尽力しました。
植木秀幹
名前 | 植木秀幹 |
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よみがな | うえきほみき |
生存期間 | 1882-1976 |
活躍した時代 | 明治~昭和 |
職業 | 愛媛大学農学部教授 |
称号 | 大洲市名誉市民 |
贈呈年月日 | 昭和40年1月1日 |
明治33年出石寺の神山諦真大僧正の門に入り、大正6年東京帝国大学文科哲学科を卒業、昭和4年から33年まで出石寺住職を勤めました。昭和9年に出石寺文化事業団を結成して、広く社会教育・社会事業を推進しました。昭和16年に全焼した出石寺の全山復興を、16年がかりで成し遂げました。
宗教界の重鎮として指導的地位にあり、昭和29年大僧正になりました。その一方で、県社会教育委員及び公安委員として愛媛県の社会教育の向上、警察行政にも貢献し、教育・文化・産業・観光のあらゆる面を通じて本市の発展に尽くしました。
神山諦鑁
名前 | 神山諦鑁 |
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よみがな | こうやまたいばん |
生存期間 | 1889-1973 |
活躍した時代 | 明治~昭和 |
職業 | 僧侶(大僧正) |
称号 | 大洲市名誉市民 |
贈呈年月日 | 昭和41年7月29日 |