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歴史

更新日:2014年12月4日更新 印刷ページ表示

原始・古代

メンヒル
メンヒル

 大洲(おおず)地方には、紀元前1万年頃から人々が住み始めたと考えられています。縄文、弥生時代には、田合(たごう)遺跡等多くの遺跡、遺物が豊富で、しかも多種多様にわたり、長い時代に及んでいます。また、この頃、食糧事情が安定すると巨石が崇拝され、東洋一といわれる高山のメンヒルをはじめ、市内50数箇所に巨石や巨石群が構築されました。

 大化の改新によって設けられた地方制度によると、大洲は、伊予国宇和郡に属し、866年には独立して喜多郡となりました。喜多郡は、矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷の3郷に分かれていました。「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)より」

 源平の合戦では、喜多郡もその戦乱の渦中に巻き込まれ、1185年、河野通信(みちのぶ)が比志城(ひじじょう)に立てこもって、平氏の攻撃を退けました。「予章記(よしょう)より」

中世

大洲城
大洲城

 鎌倉時代に入って、大洲地方を治めたのは伊予国守護宇都宮豊房でした。1330年着任から240年近く支配するところとなりました。豊房は、大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いたとされています。その後乱世を反映し、大野直之、小早川隆景、戸田勝隆らが相次いで城主となりました。

近世

加藤貞泰画像
加藤貞泰画像

 戸田勝隆についで、1595年、豊臣秀吉の重臣、藤堂高虎が、板島(宇和島)から大津(現大洲)に入り、1609年、淡路国州本城から入城した脇坂安治に引き継ぐこととなりました。

 大洲城を近世城に改造したのは、藤堂氏から脇坂氏時代とみるのが妥当と考えられています。
町割りなど近世城下の基礎は、藤堂氏が。現在復元している大洲城天守の造営は、脇坂氏が行ったとみるのが一般的といわれています。

 脇坂氏の後を受けて1617年に、加藤貞泰(さだやす)が、米子から大津へ転封しました。以来、明治維新まで12代、250年余りにわたって大洲は加藤氏の治政のもとにおかれました。

 日本の陽明学の祖といわれる、儒学者近江聖人 中江藤樹(とうじゅ)先生も10歳のとき、加藤貞泰とともに大洲に移り27歳まで大洲で暮らし、勉学に励み、門人たちに「大学」を教えました。「人の道」を説いた藤樹先生の教えは、今も大洲の人々の心に深く刻まれています。

近代

おおず赤煉瓦館
おおず赤煉瓦館

 明治の先覚者として、国学者の矢野玄道(はるみち)、明治憲法制定に尽力した香渡晋(こうどすすむ)、シーボルトに仕えた医学者の三瀬諸渕(もろぶち)、函館五稜郭(ごりょうかく)を設計した武田成章(しげあや)など多くの偉人を輩出しています。

 かつては、手すき和紙、木蝋(もくろう)、製糸業が盛んで、現在でも、和紙は大洲和紙として、蚕糸は良質の伊予生糸として知られています。

 また、昔から肱川のもたらす肥沃な土壌を利用した農業を中心に発展してきた大洲市ですが、近年は第3次産業への従事者数が50パーセントを超えるようになってきました。