臥龍山荘庭園 OZU garyusanso

臥龍山荘庭園

臥龍山荘庭園について

臥龍山荘庭園は、優れた眺望を活かすように肱川に臨む崖地の地形を利用して造営された「眺望の庭園」です。眼下の肱川とともに冨士山や亀山、梁瀬山など周囲の雄大な自然を取り込むことで、細長い敷地を感じさせないスケール感の大きな庭園となっています。
また、外部からの景観が優れている点も大きな特徴で、本庭園が立地する臥龍一帯の自然景観は、江戸時代より景勝地として人々の鑑賞の対象になってきました。巧みに配置された臥龍山荘の建物や庭園は、自然と見事に調和して、今でも大洲を代表する景観であり続けています。

臥龍山荘庭園 俯瞰

臥龍山荘庭園が魅せる四季の移り変わり

春 夏 秋 冬

臥龍山荘庭園案内図

蓬莱山 ほうらいさん

江戸時代の蓬莱山

肱川に浮かぶこの小さな島は、江戸時代には「臥龍山」と呼ばれていましたが、いつの頃からか「蓬莱山」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の蓬莱山は、山頂部分には祠が祀られ、東側の入り江部分には川舟が着けられ舟入や荷揚げ場などに利用されるなど、誰もが自由に行き来できる場所でした。

明治32年(1899)、寅次郎によって土地が取得されると、蓬莱山は臥龍山荘の一部として整備され、藤雲橋と呼ばれる橋が架けられたほか、茶室なども建築されました。蓬莱山の登り口に残る石垣もその時に整備された門の遺構と考えられます。

蓬莱山 俯瞰

  • 藤雲橋 とううんきょう

    藤雲橋 石製の親柱

    藤雲橋の親柱(山荘側)

    山荘内と蓬莱山には、擬宝珠ぎぼしの付いた石製の親柱が2本ずつあり、「藤雲橋」と刻まれています。うち1本には「明治三十二年六月架」と刻まれており、臥龍山荘の造営に合わせて架けられた橋があったことが分かります。
    当時の新聞記事には「藤が緑の橋を架けている」と表現されており、それが藤葛の絡む飾りの橋であったことが分かります。現在でも藤雲橋周辺には藤が生育しており、在りし日の名残りと思われます。

  • 与楽亭 よらくてい

    大洲十二景図

    屏風絵に描かれた藤雲橋と与楽亭
    「大洲十二景図」(市立博物館蔵)

    蓬莱山の頂上付近には、かつて円窓付きの建物があったことが大正5年(1916)の屏風絵から分かります。屏風絵には「与楽亭煎茗よらくていせんめい」の題名が付けられており、煎茗が煎茶を表す言葉であることから、その建物は「与楽亭」という茶室だったと考えられます。

山荘内の庭園

山荘内の庭園

庭園は神戸の庭師・植徳を招いて造営したとされ、庭石には地元の輝緑岩や緑色片岩を中心に、特徴的な柱状のげんだ石(伊予市双海町上灘産)などを多用しています。また、大阪・淀屋辰五郎の庭にあったとされる手まり石など、吟味された石材を庭園内の要所へ巧みに配置しています。庭木にはサルスベリやコウヨウザンなど、当時流行していた樹木を集める一方で、石垣内には生きた樹木をそのまま残すなど自然との共生を図っています。

寅次郎は作庭に関しても神戸から細かい指示を送るなど、建物同様に強いこだわりをもっていたと思われ、寅次郎の美意識と独創性が所々に垣間見えます。

山荘内の庭園

  • 不老庵下の銘文

    不老庵下の銘文

    不老庵下の石垣のなかには、ひときわ目を引くように斜めに組み込まれた長い石(244cm×30cm)があります。その石には明治32年(1899)の年号とともに、険しい崖地に石垣を築いた山本徳蔵という人物を称えた内容の銘文が刻まれています。この年は寅次郎が土地を取得した年でもあり、取得後すぐにこの石垣が施工されたことが分かります。その2年後の明治34年(1901)に不老庵が竣工していることからも、臥龍山荘の造営にあたっては不老庵の建築が優先されていたことがうかがえます。

  • 舟着き場跡

    舟着き場跡 石階段

    臥龍の淵に面した川岸には、岩盤を削って平場や石段に加工した部分があります。当時の舟着き場跡と考えられ、川舟から直接山荘内に上がれるようにしていたものと思われます。そこから上方へは石階段を上って、藤雲橋や知止庵方向へと小道が通じています。

    かつては川舟からも山荘内に客人を迎え入れていたものと考えられます。

臥竜山荘と河内寅次郎

大洲出身の貿易商河内寅次郎が明治後期に造営

河内寅次郎

臥龍山荘の立地する肱川一帯は江戸時代から知られる名所で、肱川に浮かぶ蓬莱山が龍の臥す姿に似ていることから「臥龍」と名付けられたと伝わります。明治後期、この肱川を臨む景勝地に造営されたのが臥龍山荘です。

施主は大洲市新谷にいや出身の貿易商河内寅次郎(1853~1909)で、神戸を拠点として木蠟の輸出で財をなした人物です。故郷の大洲に別荘を建築するため、明治32年(1899)にこの地を購入し、約10年の歳月をかけて建物や庭園を整備しました。山荘内の臥龍院・不老庵・文庫の建物3棟は国の重要文化財に指定されています。

臥龍山荘の造営にあたっては、京都の名工や神戸の庭師を招き、地元の大工棟梁であった中野寅雄がこれをまとめあげたとされますが、神戸にいた寅次郎も材料の吟味や細部意匠に至るまで細かな指示を送っており、寅次郎自身が造営に対して強いこだわりをもっていたことが分かります。

しかし、臥龍山荘の完成後間もない明治42年(1909)、寅次郎は神戸で大病を患い、56歳という若さで生涯を閉じます。寅次郎の墓は、臥龍山荘の対岸に正面を山荘に向けて建てられていて、今でも山荘を見守っています。

明治32年(1899) 臥龍山荘・蓬莱山の土地を取得
不老庵下の石垣施工
明治33年(1900) 不老庵 着工
明治34年(1901) 不老庵 竣工
明治36年(1903) 臥龍山荘の土地を追加取得
明治37年(1904) 臥龍院 着工
文庫 上棟
明治38年(1905) 臥龍院 上棟
明治39年(1906) 知止庵(浴室便所) 竣工
明治42年(1909) 河内寅次郎逝去(享年56歳)

【大洲市内から臥龍山荘への交通】

大洲市内から臥龍山荘への交通